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中学歴史・年代暗記⑩
中学生:社会 歴史の年代暗記⑩
⑧の続きになります。今回はキリスト教についてです。
1517年……ルターの宗教改革(教皇が免罪符を販売。→ルターは教皇や教会権威を否定。「聖書だけが信仰のよりどころである」と説く。)
1549年……イエズス会の宣教師フランシスコ=ザビエルが、キリスト教布教のために鹿児島に来航し、平戸・山口・長崎などで布教を始める。
16世紀になり、ルターが宗教改革の口火を切ると、ルターらの考えを支持したキリスト教の勢力の動きが活発になります。彼らを、ローマ教皇を首長とする『カトリック』に対して『プロテスタント(抗議する者という意味)』と言います。一方、カトリック教会でも改革が進められ、その中心となった「イエズス会」は海外布教に力を入れます。フランシスコザビエルは、イエズス会創設者の一人です。
ザビエルは、貧しい人々や病気の人に救いの手を差し伸べ、学校・病院・孤児院などを作って布教を行います。カトリックの信者「キリシタン」は、しだいに増えていきます。戦国大名たちの中にも、キリスト教に改宗する者も現れます。彼ら「キリシタン大名」の中には、大村純忠・大友義鎮・有馬晴信のように、ローマ法王に使節を送るものも出てきます(天正遣欧少年使節)。信者の数は、初めは九州を中心に15万人ほどでしたが、17世紀にキリスト教が禁止される直前には、全国で30万人を超える程になっていたといわれています。
ザビエルたちは、いったい何のために布教していたのでしょうか。カトリック布教のためだけでしょうか。勿論、そんなことはありません。イエズス会の目的は、カトリック勢力の拡大とともに、プロテスタントの撲滅を目指し、金1ℊと等価で交換されていた香辛料(胡椒)を獲得することです。だから、彼らは、貧しい日本人に恵みを与えカトリック教の信者にし、貿易で莫大な利益を得ようとしていたのです。
キリスト教に対する将軍の戦略をまとめます。
◉ 織田信長……支配に抵抗する仏教勢力への対抗と貿易による利益のため、キリスト教を保護する。
◉ 豊臣秀吉……初めキリスト教を保護していたが、長崎がキリシタン大名によって寄進され教会領になったことなどから、その力を恐れるようになり、1587年に宣教師の海外追放を命じてキリスト教を禁止する。(ただし、貿易を豪商らに認めていたため、キリスト教の禁止は徹底できなかった。)
◉ 徳川家康~秀忠……初め、キリスト教の日本への影響よりも、貿易の利益を優先していた。しかし、神への信仰を重んじるキリスト教が幕府の支配の妨げになると考え、禁止へ。
1612年……幕領でキリスト教を禁止する。
1613年……全国でキリスト教を禁止する。
◉ 徳川家光
1624年……スペイン船の来航を禁止する。
1635年……日本人の海外渡航と帰国を禁止する。
1637年……島原・天草一揆が起こる。
1639年……ポルトガル船の来航が禁止され、鎖国が完成する。
中学歴史・年代暗記⑨
中学生:社会 歴史の年代暗記⑨
前回の続きです。桶狭間の戦いが起こる前の織田と今川の関係をおさえておきます。
織田の支配地(尾張)と、今川の支配地(遠江・駿河)の間に(三河)があり、織田と今川は三河をめぐって争いを続けています。地図で言うと、西から尾張-三河-遠江-駿河となります。信長の父信秀が三河に攻め込んだ時、三河の有力者松平広忠は今川義元に助けを求めます。義元は、広忠に援軍を送り、その見返りとして広忠の息子(後の徳川家康)を人質として駿河に送ることを命じ、三河を実効支配しようとします。1551年信秀が亡くなり、息子の織田信長が家督を継ぎます。尾張をきちんと治めるまでの期間に、今川義元は三河を支配下に収め、隣国の武田・北条と同盟関係を組みます。そして、尾張にある(今川方の手に落ちた城)鳴海城と大高城を拠点にします。これに対し、織田信長は2つの城の周辺に5つの砦を築いて防衛を強化します。
1560年、今川が動いたのか織田が挑発したのかは諸説があり分かりませんが、歴史が動いたのは確かです。桶狭間の戦いが起こります。当初、桶狭間の戦いは今川義元が圧勝すると誰もが思っていました。しかし、今川義元は、大軍を活かせず(そのように攻略されたのか?)織田に討ち取られます。
織田信長は東海地方を支配する今川義元を桶狭間の戦いで破り、「天下布武」という武力による全国統一の意志を表明します。
あ、桶狭間の戦いでキャプションが終わってしまう。いったん終了します。
今回は、本能寺の変からだったのに!
1582年……織田信長は、本能寺の変で家臣の明智光秀に攻められて自害する。→明智光秀は、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れる。秀吉は、山崎周辺の寺社地から台帳を集め、検地を進めていく。そして、信長の後継者となり天下統一へ動き出す。この流れは、みんな『イチゴパンツ』を履いて行われました。なんて、はずないけど、強烈なイメージがあるのでそういうことにしておきましょう。
次回は、江戸時代になるので、戦国時代の続きは機会があればということで、お許しください。
中学歴史・年代暗記⑧
中学生:社会 歴史の年代暗記⑧
前回の続きです。
1522年……スペインが派遣したマゼランの一行は、アメリカ大陸の南端を周って回って西に向かい、世界一周に初めて成功します。
ポルトガルは、インドのゴアやマレー半島のマラッカに拠点を置き、東南アジアのマルク諸島にも到達します。スペインは、カリブ海の島々やアメリカ大陸に進出し、アステカ王国やインカ帝国を征服して広大な植民地を築きます。このように新航路が開拓され、ヨーロッパ人が世界各国に進出したことなどから、16世紀には貿易が世界的に盛んになります。一方、中国の明は、外国から貢物を受けて返礼する形で貿易しており、公式には海外に商人を派遣できないため、琉球の貿易船や倭寇などが中継貿易を盛んに行っていました。そうした中国をめぐる中継貿易に、16世紀半ばからポルトガルとスペインが参入します。
1543年……種子島に漂着した倭寇の船に乗っていたポルトガル人によって、日本に鉄砲が伝わる。
(今までの教科書には、『ポルトガル人をのせた中国船が、暴風にあって種子島に漂着し、鉄砲を伝えた』となっていました。ここでの倭寇は、明の密貿易商船をさします。)
1549年……イエズス会の宣教師フランシスコ=ザビエルが、キリスト教布教のために鹿児島に来航し、平戸・山口・長崎などで布教を始める。
こうして伝わった鉄砲とキリスト教は、日本を大きく変えていきます。 キーワードは、『鉄砲』と『キリスト教』です。 次回に続きます。
中学歴史・年代暗記⑦
中学生:社会 歴史の年代暗記⑦
今回も、暗記文の一部に、簡単な歴史の背景と解説を付けてみました。
古代や中世のヨーロッパの人々にとって、香辛料や絹織物などのアジアの産物は貴重品でした。なかでも香辛料は、インドや東南アジアが産地でしたが、ヨーロッパに届くまでにイスラム商人などの手を経ていたため、値段が高くなりがちでした。ヨーロッパの人々は、直接インドや中国と香辛料などの取り引きをするために、当時の科学や技術の進歩を生かして新たな航路を開拓しようと考えるようになりました。その先頭を切ったのは、ポルトガルとスペインでした。これらの国々は、貿易で利益を得ることだけでなく、イスラム勢力に対抗してキリスト教を世界に広めることも目指しました。≪中学生の歴史:帝国書院より≫
1492年……スペインの援助を受けたコロンブスは、西に進めばイスラム教の国々を通らずにインドなどのアジアにつくと考えて出港し、1492年にアメリカ大陸に連なる西インド諸島に到着しました。
1498年……ポルトガルのバスコ=ダ=ガマは、1498年にアフリカ南端の喜望峰を回ってインドに到達し、アジアへの航路が開かれました。
14~16世紀にかけて西ヨーロッパに広まった新しい文化の動き(ルネサンス)は、神や教会を中心とする考え方から人間を解放しようとします。教皇やカトリック教会の権威は衰え、資金不足になっていきます。16世紀初め、教皇がローマの大聖堂修築の資金を免罪符を販売して集めると、ドイツのルターは、教皇や教会の権威を否定し、「聖書だけが信仰のよりどころである」と説いて宗教改革の口火を切ります。
1517年……ルターの宗教改革 次回は、ヨーロッパと日本がつながります。お楽しみに。
中学歴史・年代暗記⑥
中学生:社会 歴史の年代暗記⑥
今回は、暗記文の一部に簡単な解説を付けてみました。
1281年……1281年6月(太陽暦では8月)、フビライは14万人の大軍で、第2回日本遠征を実行。博多湾に上陸するが、日本側は石塁を築いて防戦し、小舟で反撃に出た。戦闘は約1か月続いたが、暴風により元軍は大被害を受け撤退した。元の兵船は大部分が沈没し、元軍10万人、高麗軍7000人が戻らなかった。生還者は約3万数千人に過ぎなかった。〈旗田『元寇』参考〉
1297年……元寇で、御家人たちは恩賞を期待して元軍に立ち向かいましたが、防衛戦であったため、幕府は恩賞の領地を十分に与えることが出来ませんでした。武士の領地は分割相続のため、次第に小さくなりました。そこに、海岸警備などの負担も加わり生活が苦しくなる御家人も出てきました。そこで、この徳政令が出されました。永仁の徳政令には、「これまでに御家人でない武士や庶民が御家人から買った所領は、20年以上たっていても、返すこと。…」と書かれていました。≪中学生の歴史:帝国書院参考≫
幕府が御家人を救おうとして出した徳政令は、一時的な効果しかなく、皮肉なことに御家人をさらに苦しめる結果となり、御家人の心は次第に幕府から離れていきます。
歴史は、暗記教科ではないと思います。年代の暗記も、歴史の流れを整理するためのものです。この投稿も、そういった意味で、上手に利用していただけたら幸いです。では、次回をお楽しみに。