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中学歴史・年代暗記⑬
中学生:社会 歴史の年代暗記⑬ 江戸の政治改革(後編)
1772年…田沼意次が老中になる・「意次は 非難何も 気にしない」
1782年…天明の大飢饉が起こる・「天明に 非難や不満の 大飢饉」
1787年…松平定信が老中になり、寛政の改革を始める・「定信の 非難の話 しちゃいかん」
1833年…天保の大飢饉が起こる・「天保の 人は散々 大飢饉」
1841年…水野忠邦が老中になり、天保の改革を始める・「忠邦の 改革初めは 良いテンポ」
【田沼意次】(前回の続き) 田沼は、年貢だけに頼る従来の政策を転換し、商品の流通や生産から得る利益によって財政の立て直しを図る。しかし、幕府中心の経済政策や賄賂の横行への批判が高まり、さらに東北地方の冷害や浅間山の噴火などによる天明の飢饉で、百姓一揆や打ちこわしが数多く起こるようになり、その責任を取り老中を退く。
【松平定信】徳川吉宗の孫。白川藩での実績から、老中となり「寛政の改革」を行う。
吉宗の政治を理想として、質素・倹約を掲げた。まず、都市に出稼ぎに来ていた者を村に返し穀物の栽培を奨励し、飢饉に備えて米を蓄えさせた。そして、借金に苦しんでいた旗本や御家人の生活難を救うため、町人からの借金を帳消しにさせ、そのかわり武士には倹約を徹底させ、学問・教養・武術を奨励した。また、幕府の権威を高めるため、庶民が読む出版物の内容を取り締まり、幕府の学校での朱子学以外の儒学を禁止したりした。
しかし、さかんに文武を奨励する定信に嫌気がさしたか、『世の中にか(蚊)ほどうるさきものはなし文武文武(文武文武)と夜も眠れず』や『白河の清きに魚の住みかねてもとの濁りの田沼恋ひしき』という狂歌を詠まれたりしている。
【天保年間】19世紀の前半は、しばしば凶作に見舞われた。1833年には天保の大飢饉が起こり、各地で一揆や打ちこわしが続発した。1837年、人々の苦しむ姿を見かねた大阪町奉行所の元役人であった大塩平八郎が乱を起こし幕府に強い衝撃を与えた。
【水野忠邦】社会の動揺と外国船の来航に対抗するため、享保・寛政の改革を参考に、社会の安定化と幕府の強化を目指して改革を始めた。「天保(てんぽう)の改革」
都市の農民を農村に返し、農民が商業に手を出すことを禁じた。物価を下げるため株仲間を解散させ、風紀をただすために出版を統制し、贅沢を禁じた。さらに、江戸や大阪周辺の大名領などを幕領にしようとしたりしたが、強引すぎるやり方は反発を買い、かえって幕府の権威は傾いた。忠邦の政策は2年余りしか続かなかった。
中学歴史・年代暗記⑫
江戸時代-3
中学生:社会 歴史の年代暗記⑫ 江戸の政治改革(前編)
1687年…徳川綱吉が生類憐みの令を出す・「憐みの ヒーロー放つな 令出すな」
1709年…新井白石が政治を始める・「白石で 非難丸く 治まらぬ」
1716年…徳川吉宗が享保の改革を行う・「吉宗の 人の名広まる 享保に」
1772年…田沼意次が老中になる・「意次は 非難何も 気にしない」
1782年…天明の大飢饉が起こる・「天明に 非難や不満の 大飢饉」
1787年…松平定信が老中になり、寛政の改革を始める・「定信の 非難の話 しちゃいかん」
1833年…天保の大飢饉が起こる・「天保の 人は散々 大飢饉」
1841年…水野忠邦が老中になり、天保の改革を始める・「忠邦の 改革初めは 良いテンポ」
【徳川綱吉】江戸幕府の安定期。武断政治から文治政治の転換をはかる。身分制度や幕藩体制を正当化する理論として朱子学を重視した。(武断政治:逆らうものを力でねじふせる政治/文治政治:武力ではなく学問や礼節を重んじる政治)
違法行為や野蛮な行動をする「かぶき者」を取り締まり、平和な社会秩序を維持しようとしたが、行き過ぎた取り締まりによって多くの人が迷惑を被ったため「生類憐みの令」は「天下の悪法」と言われるようになった。
【新井白石】徳川家宣に用いられ、政治の刷新をはかった。(正徳の治)
「生類憐みの令」を即座に廃止する。”政治は民のためにあり、私的な事情に流されてはいけない”という信念のもとに政治を行う。「鬼」と呼ばれるほどの強い意志の持ち主。貨幣改鋳(質を落とした)を行った荻原重秀を追放し、慶長金銀と同じ品質に戻すなど改革を行ったが、経済が縮小し不況となった。
【徳川吉宗】家康の政治にかえることをめざし、質素・倹約を奨励し、幕府財政の立て直しを図ろうとした。年貢を増やすために新田開発を奨励したり、参勤交代で江戸にいる期間を半分に短縮するかわりに、大名から1万石につき100石の米を幕府へ献上させる上米の制を取り入れたりして幕府の収入を増やした。公事方御定書を定めたり、目安箱を設置するなどの政策も行った。
【田沼意次】徳川家治に用いられ、老中となり政権を担当する。(田沼時代)
商人と結び、経済優先の政治を行った。たとえば、株仲間を公認して商人たちに一定の利潤を保証する代わりに、運上金や冥加という税金や献金を上納させたり、長崎貿易を積極的に推進したりした。蝦夷地の開発計画を試みたり、印旛沼と手賀沼の干拓工事を実施したりした。(未完成)
しかし、役人や特権商人との癒着を招き、「わいろ政治」との非難を受けることになる。
⑬の後編につづく
中学歴史・年代暗記⑪
江戸時代
中学生:社会 歴史の年代暗記⑪ 鎖国下の4つの窓口
1641年…「オランダ商館が長崎の出島に移される」
この制度によって、オランダ・中国以外との貿易と出入国は厳しく制限されます。この制度は、のちに鎖国と呼ばれるようになります。鎖国のねらいは、日本からキリスト教の影響を排除し、幕府が貿易と海外情報を独占することにありました。鎖国下の江戸時代には、実は4つの窓口が外国に開かれていました。
①長崎……幕府(長崎奉行)が担当・オランダ、中国と貿易
◦長崎港内につくられた扇形の人工島(出島)にオランダ商館が置かれました。オランダ船の入港のたびに、「オランダ風説書」という海外情報の報告書を、幕府がオランダに提出することを義務づけていました。
◦唐人屋敷が置かれ、町中に雑居していた中国人が住まわされます。清と日本との正式な国交は開かれていませんでしたが、清は鎖国後も長崎での貿易を許されています。清との取引は、館内で行われていました。
➁対馬(長崎県)……対馬藩が担当・朝鮮と貿易
対馬藩の藩主(宗氏)は、徳川家康の時に朝鮮外交上の特権的な地位が認められ、朝鮮の釜山に倭館(草梁倭館)と呼ばれる商館を置き、外交や貿易を独占していました。朝鮮通信使が来日した際には、接待役も務めていました。
➂薩摩(鹿児島県)……薩摩藩が担当・琉球王国と貿易
明との中継貿易で栄えていた琉球王国は、1609年に薩摩藩に征服されて支配下に置かれます。琉球は清の冊封も受けていたので、双方の支配に服し、将軍の代がわりには江戸に使節を送るなど二重外交を続けています。清に朝貢して得られた物資と情報は、薩摩藩を通じて幕府にもたらされていました。
④松前(北海道)……松前藩が担当・蝦夷地と貿易
松前藩は、アイヌの人々が住む蝦夷地(北海道)との独占的な交易が認められていました。蝦夷地の南西部に領地を持っていました。わずかな米を大量のにしん、鮭などの海産物と交換するなど、アイヌの人々にとって不利益な取引を行い、大きな利益を得ていました。この不平等な取引に対し、1669年にアイヌの人々を率いて立ち上がったのがシャクシャインです。松前藩は幕府の支援を得てこれをしずめ、アイヌの人々に対する支配を強めていきます。1669年……「シャクシャイン、アイヌのヒーロー報われぬ」となります。
中学歴史・年代暗記⑩
中学生:社会 歴史の年代暗記⑩
⑧の続きになります。今回はキリスト教についてです。
1517年……ルターの宗教改革(教皇が免罪符を販売。→ルターは教皇や教会権威を否定。「聖書だけが信仰のよりどころである」と説く。)
1549年……イエズス会の宣教師フランシスコ=ザビエルが、キリスト教布教のために鹿児島に来航し、平戸・山口・長崎などで布教を始める。
16世紀になり、ルターが宗教改革の口火を切ると、ルターらの考えを支持したキリスト教の勢力の動きが活発になります。彼らを、ローマ教皇を首長とする『カトリック』に対して『プロテスタント(抗議する者という意味)』と言います。一方、カトリック教会でも改革が進められ、その中心となった「イエズス会」は海外布教に力を入れます。フランシスコザビエルは、イエズス会創設者の一人です。
ザビエルは、貧しい人々や病気の人に救いの手を差し伸べ、学校・病院・孤児院などを作って布教を行います。カトリックの信者「キリシタン」は、しだいに増えていきます。戦国大名たちの中にも、キリスト教に改宗する者も現れます。彼ら「キリシタン大名」の中には、大村純忠・大友義鎮・有馬晴信のように、ローマ法王に使節を送るものも出てきます(天正遣欧少年使節)。信者の数は、初めは九州を中心に15万人ほどでしたが、17世紀にキリスト教が禁止される直前には、全国で30万人を超える程になっていたといわれています。
ザビエルたちは、いったい何のために布教していたのでしょうか。カトリック布教のためだけでしょうか。勿論、そんなことはありません。イエズス会の目的は、カトリック勢力の拡大とともに、プロテスタントの撲滅を目指し、金1ℊと等価で交換されていた香辛料(胡椒)を獲得することです。だから、彼らは、貧しい日本人に恵みを与えカトリック教の信者にし、貿易で莫大な利益を得ようとしていたのです。
キリスト教に対する将軍の戦略をまとめます。
◉ 織田信長……支配に抵抗する仏教勢力への対抗と貿易による利益のため、キリスト教を保護する。
◉ 豊臣秀吉……初めキリスト教を保護していたが、長崎がキリシタン大名によって寄進され教会領になったことなどから、その力を恐れるようになり、1587年に宣教師の海外追放を命じてキリスト教を禁止する。(ただし、貿易を豪商らに認めていたため、キリスト教の禁止は徹底できなかった。)
◉ 徳川家康~秀忠……初め、キリスト教の日本への影響よりも、貿易の利益を優先していた。しかし、神への信仰を重んじるキリスト教が幕府の支配の妨げになると考え、禁止へ。
1612年……幕領でキリスト教を禁止する。
1613年……全国でキリスト教を禁止する。
◉ 徳川家光
1624年……スペイン船の来航を禁止する。
1635年……日本人の海外渡航と帰国を禁止する。
1637年……島原・天草一揆が起こる。
1639年……ポルトガル船の来航が禁止され、鎖国が完成する。
中学歴史・年代暗記⑨
中学生:社会 歴史の年代暗記⑨
前回の続きです。桶狭間の戦いが起こる前の織田と今川の関係をおさえておきます。
織田の支配地(尾張)と、今川の支配地(遠江・駿河)の間に(三河)があり、織田と今川は三河をめぐって争いを続けています。地図で言うと、西から尾張-三河-遠江-駿河となります。信長の父信秀が三河に攻め込んだ時、三河の有力者松平広忠は今川義元に助けを求めます。義元は、広忠に援軍を送り、その見返りとして広忠の息子(後の徳川家康)を人質として駿河に送ることを命じ、三河を実効支配しようとします。1551年信秀が亡くなり、息子の織田信長が家督を継ぎます。尾張をきちんと治めるまでの期間に、今川義元は三河を支配下に収め、隣国の武田・北条と同盟関係を組みます。そして、尾張にある(今川方の手に落ちた城)鳴海城と大高城を拠点にします。これに対し、織田信長は2つの城の周辺に5つの砦を築いて防衛を強化します。
1560年、今川が動いたのか織田が挑発したのかは諸説があり分かりませんが、歴史が動いたのは確かです。桶狭間の戦いが起こります。当初、桶狭間の戦いは今川義元が圧勝すると誰もが思っていました。しかし、今川義元は、大軍を活かせず(そのように攻略されたのか?)織田に討ち取られます。
織田信長は東海地方を支配する今川義元を桶狭間の戦いで破り、「天下布武」という武力による全国統一の意志を表明します。
あ、桶狭間の戦いでキャプションが終わってしまう。いったん終了します。
今回は、本能寺の変からだったのに!
1582年……織田信長は、本能寺の変で家臣の明智光秀に攻められて自害する。→明智光秀は、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れる。秀吉は、山崎周辺の寺社地から台帳を集め、検地を進めていく。そして、信長の後継者となり天下統一へ動き出す。この流れは、みんな『イチゴパンツ』を履いて行われました。なんて、はずないけど、強烈なイメージがあるのでそういうことにしておきましょう。
次回は、江戸時代になるので、戦国時代の続きは機会があればということで、お許しください。
中学歴史・年代暗記⑧
中学生:社会 歴史の年代暗記⑧
前回の続きです。
1522年……スペインが派遣したマゼランの一行は、アメリカ大陸の南端を周って回って西に向かい、世界一周に初めて成功します。
ポルトガルは、インドのゴアやマレー半島のマラッカに拠点を置き、東南アジアのマルク諸島にも到達します。スペインは、カリブ海の島々やアメリカ大陸に進出し、アステカ王国やインカ帝国を征服して広大な植民地を築きます。このように新航路が開拓され、ヨーロッパ人が世界各国に進出したことなどから、16世紀には貿易が世界的に盛んになります。一方、中国の明は、外国から貢物を受けて返礼する形で貿易しており、公式には海外に商人を派遣できないため、琉球の貿易船や倭寇などが中継貿易を盛んに行っていました。そうした中国をめぐる中継貿易に、16世紀半ばからポルトガルとスペインが参入します。
1543年……種子島に漂着した倭寇の船に乗っていたポルトガル人によって、日本に鉄砲が伝わる。
(今までの教科書には、『ポルトガル人をのせた中国船が、暴風にあって種子島に漂着し、鉄砲を伝えた』となっていました。ここでの倭寇は、明の密貿易商船をさします。)
1549年……イエズス会の宣教師フランシスコ=ザビエルが、キリスト教布教のために鹿児島に来航し、平戸・山口・長崎などで布教を始める。
こうして伝わった鉄砲とキリスト教は、日本を大きく変えていきます。 キーワードは、『鉄砲』と『キリスト教』です。 次回に続きます。
中学歴史・年代暗記⑦
中学生:社会 歴史の年代暗記⑦
今回も、暗記文の一部に、簡単な歴史の背景と解説を付けてみました。
古代や中世のヨーロッパの人々にとって、香辛料や絹織物などのアジアの産物は貴重品でした。なかでも香辛料は、インドや東南アジアが産地でしたが、ヨーロッパに届くまでにイスラム商人などの手を経ていたため、値段が高くなりがちでした。ヨーロッパの人々は、直接インドや中国と香辛料などの取り引きをするために、当時の科学や技術の進歩を生かして新たな航路を開拓しようと考えるようになりました。その先頭を切ったのは、ポルトガルとスペインでした。これらの国々は、貿易で利益を得ることだけでなく、イスラム勢力に対抗してキリスト教を世界に広めることも目指しました。≪中学生の歴史:帝国書院より≫
1492年……スペインの援助を受けたコロンブスは、西に進めばイスラム教の国々を通らずにインドなどのアジアにつくと考えて出港し、1492年にアメリカ大陸に連なる西インド諸島に到着しました。
1498年……ポルトガルのバスコ=ダ=ガマは、1498年にアフリカ南端の喜望峰を回ってインドに到達し、アジアへの航路が開かれました。
14~16世紀にかけて西ヨーロッパに広まった新しい文化の動き(ルネサンス)は、神や教会を中心とする考え方から人間を解放しようとします。教皇やカトリック教会の権威は衰え、資金不足になっていきます。16世紀初め、教皇がローマの大聖堂修築の資金を免罪符を販売して集めると、ドイツのルターは、教皇や教会の権威を否定し、「聖書だけが信仰のよりどころである」と説いて宗教改革の口火を切ります。
1517年……ルターの宗教改革 次回は、ヨーロッパと日本がつながります。お楽しみに。
中学歴史・年代暗記⑥
中学生:社会 歴史の年代暗記⑥
今回は、暗記文の一部に簡単な解説を付けてみました。
1281年……1281年6月(太陽暦では8月)、フビライは14万人の大軍で、第2回日本遠征を実行。博多湾に上陸するが、日本側は石塁を築いて防戦し、小舟で反撃に出た。戦闘は約1か月続いたが、暴風により元軍は大被害を受け撤退した。元の兵船は大部分が沈没し、元軍10万人、高麗軍7000人が戻らなかった。生還者は約3万数千人に過ぎなかった。〈旗田『元寇』参考〉
1297年……元寇で、御家人たちは恩賞を期待して元軍に立ち向かいましたが、防衛戦であったため、幕府は恩賞の領地を十分に与えることが出来ませんでした。武士の領地は分割相続のため、次第に小さくなりました。そこに、海岸警備などの負担も加わり生活が苦しくなる御家人も出てきました。そこで、この徳政令が出されました。永仁の徳政令には、「これまでに御家人でない武士や庶民が御家人から買った所領は、20年以上たっていても、返すこと。…」と書かれていました。≪中学生の歴史:帝国書院参考≫
幕府が御家人を救おうとして出した徳政令は、一時的な効果しかなく、皮肉なことに御家人をさらに苦しめる結果となり、御家人の心は次第に幕府から離れていきます。
歴史は、暗記教科ではないと思います。年代の暗記も、歴史の流れを整理するためのものです。この投稿も、そういった意味で、上手に利用していただけたら幸いです。では、次回をお楽しみに。